直帰

ミンユンギとごはんたべたい

キラキラしたものを見すぎるとちょんまげ切り落としたくなる

 

直帰です。

 

■イロ直帰ラジオが公開されました。

 

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■「バンタンと出会って変わったこと」の最終回。毎回のことながら、お便りが良すぎませんでしたか??

 

Epiphanyと出会った方のお便り、エピソードとして強すぎてマジで鳥肌立ってしまった。奇跡とか運命って言葉にするとチンプになっちゃうけど、こういう理屈で説明できない「ご縁」みたいなものを、わりと私は信じている。

 

■あと「いつか彼らを生で見る日に備えて、視力をよくするトレーニングをしたら視力が良くなりました。幸せです」というお便りがあって笑ってしまった。すげえ。視力って決意次第で良くできるもんなのかよ。事後報告なのがかっこいい。

 

 

■お便りを読んでいるなかで、ああこれはわかるなというか、鋭い指摘だなと思ったのが、「バンタンに出会って、幸せなはずの生活が、もっとキラキラしたものを知ってしまったばかりに満足できなくなった」というものだ。これドキッとしたな~。

 

■この人と私の感覚が一致しているかはわからないが、うわそれ言っちゃう?!と戸惑うくらい、だいたいの人が見て見ぬふりをする部分だと思うからだ。

 

アーカイブでラジオを聴いた人からも、同じ部分に言及したマシュマロをもらった。「彼らの才能と努力が凄すぎて、私は何も持っていないなと感じさせられる瞬間がときどきあった」「さらに自分は、Twitterにいる人達にもそれを感じる」という内容だった。

 

■もちろん、どちらも彼らが大好きという前提で。素敵なものをたくさんもらっているのに、生きる力を与えられているのに、でもなぜか芽生えてしまう小さなほころび。照らす光が強いほど、自分の影は色濃くクッキリと浮かび上がってしまう。

 

 

■素敵なものを見てるのに、なんでそんな暗い気持ちになるの?!という人も全然いると思う。全く同じものを見ていても、受ける感情はこんなにも違うのだ。

 

■私はこれを、多少なりとも「表現を試みたことがあるかないか」の違いかな、と思う。

 

■音楽や文章などのツールを使って自分を表現するのが好きだったり、そういうものに重きを置いた人生を歩んでいる自覚がある人は、相手がバンタンだろうが近しい人間であろうが、ときどき同じ土俵で相撲を取ってしまうことがあるんじゃないかな。

 

■切ないのは、それがどうやってもエア相撲にしかならないところだ。相手に勝負を挑まれたわけではなく、頭の中で勝手にハッケヨイしてるだけなのだ。審査員は自分しかいないから、見慣れた自分の技に新鮮さもパンチもなくて、一方的に負けたあげく誰にもタオルをかけてもらえないまま退場。そんなことが続いたら、そりゃちょんまげ切り落としたくもなる。体力の限界…とつぶやいて業界を去ってしまうのも時間の問題だ。

 

 

才能ってな~に?

 

 

■「ここが自分の長所です!と認識していることが本当に長所なことってあまりなくて、みんなこんなもんっしょと自分では思っていたのに、意外と周りはそこまでできなかった、みたいなことが長所である」という記述をどこかで見たことがある。確かにそうだなと思う。才能と呼べるものがあるとしたら、そういう部分なのかもしれない。

 

■あくまで私の感覚だけど、子供の頃とか、遅くともハタチくらいまでに周囲から「ここすごいね~」と言われなかったことは才能じゃないと思っている。ここから先は、才能というより能力の世界だ。才能がなくても、能力なら後天的に育てることができる。

 

■能力を効率よくのばすためには色んな方法がある。周囲と自分を比べて悔しさを感じ、それを原動力に変える、というのも立派な方法の一つだろう。

 

■だけどここには落とし穴があって、力に変えられる悔しさと、変えられない悔しさって質が違うと思うんだよな。

 

■たとえば同じ部署に同期がいるとして、いつも営業成績のトップの奪い合いをしていて、今月の売り上げが僅差で負けてしまった。この場合の「クッソ~来月は負けないぞ!」はどちらかというとポジティブな悔しさで、力に変えられる類のものだ。自分もある程度できるという自覚があって、向こうも自分をライバル視してる状況だから。

 

■でも、新しく始めたスポーツで初試合に挑んだとき、10戦中0勝だったらどうだろう。さすがに才能無いのかも…と凹んでしまうだろう。これはネガティブな悔しさで、力に変えるのは難しい感じがする。(ここでチクショーやってやるぜ!と燃えられる人は明るいバカなので好きだけど)

 

■そもそも悔しさ自体に耐性がない人もいる。私はたぶんそれ。周囲を疎ましく思うこと自体がむちゃくちゃストレスだし、劣等感を力に変えられないタイプの人間だ。死ぬほどイジけるしスネる。スネてる時間は足が止まってなんにも進まないので、自分よりすごい人を見るのって結構危険な行為なのだ。

 

■人との比較で感じる悔しさより、「理想の自分」との比較のほうが、私の性分に合っている。さっきの会社の例えでいうと「同期に勝ちたい」より「月末に達成感を感じている自分でいたい」のほうが、原動力として使いやすい。

 

■マシュマロをくれた人も、周りと比較してしまうということは、表現の能力の種みたいなものを自分の中に見出している部分があるのかもしれない。じゃなきゃ劣等感に気付くことなんてできない。「これは力に変わらないインプットだ」と気付けたあなたは賢い人だと思う。のばしていける能力の選択肢はいくらでもある。

 

 

■ただ、こと表現に関しては、何かしらのストレスが根源になっていることも多い気がしない??

 

■なんでかわからないけど、とても健やかで、満たされていて、何ひとつ不足がない状態で書き物をするのって難しいんだよな。

 

■コンテンツをみて感想を書いたりするのも、それが自分の中に形にならないまま留まってるのがストレスだから、みたいなとこあるし。いいものを見てすんごい満たされちゃったあとは、いちいち感想なんて述べなくても平気だったりする。

 

■ストレスを受けたタイミングこそ、表現をするには絶好の機会なのかもな。

 

■今さぁうちの台所の蛇口ひねるところから水漏れしててクソストレスなんだけど、そのことを書けばノーベル文学賞も夢じゃないってこと??!!やめちまえそんな賞!!!!

 

 

■のばせる能力は、好きの延長線上にあることが多い。好きなものを好きなままでいるために心地よい環境を作っておくのも、とても大事なプロセスだ。

 

■あと、才能のあるなしについては悲観しすぎないようにしている。腹減ったときに食べるのを我慢できないとか、部屋を汚すのが上手いとか、靴下の意味わからない位置に穴をあけるとか、役に立たない才能ならいくらでもあるけど、それがどこでどんな風に形を変えるかはわからないので。お掃除大好きクンとお付き合いすることになったら、すげえ喜ばれるかもしれないし。

 

■もし靴下の意味わからない位置に穴をあけてほしいクンがいたら、私宛に送ってください。そのかわり台所の蛇口締めにきてもらいます。

 

 

マシュマロは随時募集してます↓

marshmallow-qa.com

 

 

■あ、そういえば来週のラジオのテーマは「キムナムジュンのここが好き」だよ!!!!!!ナムちゃん回!!!!ついにナムちゃん回!!!!!!!!大変だこりゃ!!!!!そっちもマシュマロで受付中でゃ〜よ!!!!!!!!ジャンジャン送ってちょ〜よ!!!!!!!!!

 

 

お先に失礼します。