直帰

ミンユンギとごはんたべたい

「わかる」は感覚の横取りになりえるらしい

 

■みんないくよーーー!せーのっ!

 

 

■毎日更新、途絶えましたっっっっっ!!!!!!!

 

 

直帰です。

 

 

■みんなに呼びかけてまでそんなことを叫ぶな。ブログの更新が2日なかったことに気付く人などいないのだ。人類ってそんなにヒマじゃない。そこまで関心を持ってくれるのは私のお母さんくらいだろう。

 

 

■いやお母さんにだけは見られちゃダメ!!!!こんなブログ!!!!みないでー!!!!!

 

 

■直帰の更新が途絶えようがブログごと終了しようが、実は誰にとっても大したことではない。世の中ってそういう残酷さがある。明日私がいなくなっても、世界は余裕で回るのだ。

 

■そして、普通に、忘れていた。いちにのポカン。

 

■こんなにも「ブログの更新」って日常のルーティーンに根付かないものですか??月末は仕事で朝から夜まで外出していることが多かったから、マッッッジで普通に頭から飛んでいた。書けないどうしよう…みたいな葛藤があったわけではなく、ブログを書かなかった日も帰宅したのが夜中で、風呂はいってちょっと作業してるときに「あ」と思い出した。「あ」と思ったけどなんの焦りもなく普通にスキンケアして寝た。思い入れが薄すぎ。ウススギの森。

 

■思えばSUGAさんのセンイルあたりから、かれこれ20日ほど毎日ブログを書いていた。

 

■あと2日書きゃあ3月中の毎日更新は達成だったのに!!!!みたいなことにこだわりだすと自分がしんどくなるのを知ってるから、「あ~~~あと2日だけどどうしよう」と葛藤する時間ごと切り捨ててしまった。これは私なりの英断だ。昨日も早朝から遠方でイベントだったし。一刻も早く寝ないと翌日の化粧ノリが終わるんだ。「終わってる化粧ノリの人」として一日過ごすのメッチャ嫌いなので。

 

 

■嫌いなのでスンッじゃあないんだよ。サボタージュを英断扱いするな。ニートが己を正当化するときのメンタリティじゃねえか。要は罪悪感ゼロのまま普通にサボッた。ガハハ!!!!!!!!!!!!!

 

 

■ブログをさぼったことで発見もあった。「日常は、感じにいかないと感じれない」ということだ。毎日更新している間は、頭の片隅で「今日何書こうかな」のアンテナがうっすらとはいえ常時ONになっているので、書く材料になりそうなものを随時拾っていけるのだけど、目の前のことでいっぱいいっぱいになるとそのアンテナは脳の端っこのほうに追いやられてしまう。

 

■仕事として書き物をしている人の脳は改めてヤバいな。左脳で事務作業しながら右脳でイマジネーションするのムズすぎだろ。ドラマーかよ。

 

■だからクリエイティブである程度稼げる人はアシスタントをつけるんだろな。創作の仕事において、左脳を使っている時間はノイズだ。イマジネーションだけに没頭できるように、その他の事務作業をやってくれる人を雇う。うちの洗濯とか掃除も誰かやってくれないか。いま私の家の中はかなり荒れている。完全に月末の部屋。写真家がうちの写真を撮ったとしたら「月末」というタイトルをつけると思う。

 

■洗濯物たまってるし食器洗ってないし春になったのに布団カバーも変えてない。ナリタリョウみたいな出で立ちのニートがうちに転がり込んでこないかな。金わたすから家事だけやるヒモになってくれ。

 

■食器を洗わないのだけはマジでカスなので、これを書き終わったら2秒で洗いにいこう。4月に入って少し落ち着いたので、感じにいくアンテナも少しずつ復活させようと思う。

 

 

■なんかさ前に大福とも話したけど、感じることに対して受動的か能動的かで、共感のありがたさって変わる気がするんだよな。

 

Twitterをやってると共感ってかなり主要なキーワードだ。昨今の「共感できるコンテンツ」への評価もどんどん高まっている感じがする。Twitterでそれわかります!とたくさんの人に思われたものはバズるし、その意見は「正しい」という公共性を帯びながら広がっていく。私が書いてることもきっと共感に基づくものが多いと思う。しかし、共感されることが必ずしも良いことではないと感じる人がいるのも、どうやら事実なのだ。

 

■例えば何かコンテンツを視聴して、その感想を書いたとき、誰かから「わかります!」とリプがつくと少し不快に似た気持ちを覚える、という人がいる。自分の頭を働かせて、手を動かして、ようやく言葉にしたものを簡単に「わかる」の一言で片づけられるとモヤッとしたり、その感覚を横取りされたような気分になるのだという。

 

■私はこれってすごく面白い心理だと思う。自分にはあまりない感覚なので、これを持ち合わせている人の話をもっと聞いてみたいと思った。

 

■たまに誰かが書いたものに「わかる、共感しました、言葉にしてくれてありがとうございます」という言葉をかける人もいる。なぜ感謝したくなるんだろうと疑問だったんだけど、これは感じることに対して受動的な人なのかな、と個人的には思う。誰かがすでに言葉にしたものを見ることで、自分の中の感覚に名前がついてスッキリする。整理してもらうことが快感な人。

 

■感じることに能動的な人は、自分の中でうごめいている形にならない何かを、自ら言葉にすることが快感な人。感じたものをスケッチするように、じっくり見つめながら出力していく。その過程で他人の見解が入ると、自分のスケッチの純度が下がってしまうので、自分の中である程度形をもたせるまで他人の意見は見に行かない。そうやって出来上がったものに「わかる」と言われると、自分なりに推敲していたそれは結局誰もが感じてることだったのか、とガッカリする気持ちが生まれるのだ。

 

■あ、念のため言っておくとどっちが良いとか正しいとかではないので!!!

 

■インターネットはこういうこといちいち口すっぱく言っとかないといけない。あと私は「わかる」と言われても全く1ミリも不快じゃないです!!!!!!!好きなだけわかってってくれ!!!!!!安いよ安いよー!!!!!!!

 

 

■自分の感覚って、私のなかで全然独自じゃないんだよなあ。これって自分にしかない感覚だろうな、って思うことあまりない。「わかります!」と言われたら「ですよねえ」と思っている。そりゃわかられるよなあ、という感じ。自分の感覚はすごく普遍的なのだと思う。なにそれわっかんね~~~~!!!と言われたこと、あんまりないもんなあ。

 

■あ、でも感じることに関してはかなり能動的かも。うーん、「能動的」と「わかるの不快」はイコールではないのか。もうちょっと知りたいな、これについては。

 

■誰にもわかられたくない!!!!!!!と思いながらツイートを繰り返してる人がいるとしたらそれはそれで面白い。どういうことなのかお茶しながら話を聞かせてほしい。

 

■あ、そういえば明日はイロ直帰ラジオだ!!SUGAさん生誕祭ラジオの最終夜。一生このテーマでやり続けてもいいくらい、SUGAさんを思う存分好き好きできる回だ。4月2日の22時半空いてる方は、よかったらご一緒に。ツイキャスでやります。

 

 

■マシュマロ随時募集してます

marshmallow-qa.com

 

お先に失礼します。